夏目漱石『草枕』ハイキングコースを歩く
熊本市の夏目漱石内坪井旧居にて
夏目漱石と私

 夏目漱石については何を語ってもいまさらという感じがする。日本人に取って最もなじみの深い作家である。夏目漱石は数年前までは大学入試の出典第1位を毎年「朝日新聞」と争っている。よく出題されるのは「こころ」「道草」だが、評論の出題も多い。「道草」は先年センター試験にも出題された。

 高等学校の国語の授業では「こころ」「夢十夜」などが取り上げられてている。高等学校の国語の教科書には「文鳥」「三四郎」「それから」「こころ」「私の個人主義」「現代日本の開化」などがよく採られている。「夢十夜」も最近は増えているようだ。

 夏目漱石「こころ」は高校の大半の国語教科書に掲載されている。2年生で学ぶ「国語U」教科書に載っている場合が多い。しかし「こころ」の中のどこが載っているかというと、「先生と私」「両親と私」の要約と「先生の遺書」の長くても33章から48章である。すなわち先生とKとのおじょうさんをめぐる心理的葛藤の部分である。最後はKの自殺で終わるのが普通である。上、中は下への導入部分である。下の中心はストーリー的にはKのドラマチックな自殺である。
 
 しかし「こころ」を読んだ高校生の感想は「読みづらい」というものが多い。その理由として「会話が少ない」ことをあげるものが多い。「こころ」の下は基本的には心理小説である。下の場合、冒頭と結末を除いて完全な一人称で書かれている。少ない会話も先生の記憶のなかで象徴化されているために、日常的な意味でのリアリティに欠ける面がある。
したがって「こころ」を上からゆっくりと読み進むと、漱石の世界の中に容易に入っていけるが、いきなり下を提示されると読みづらいということになるのだろう。「我輩は猫である」や「坊っちゃん」に比べて「こころ」が難解な作品である、分かりにくいという誤解はこの辺りからきているのであろう。

 小森陽一はちくま文庫「こころ」の解説のなかで次のように書いている。

 今までの「こころ」研究は(下)「先生の遺書」が中心だった。「こころ」の形式的主人公は「私」だが、これまでは軽くみられていた。(上)「先生と私」、(中)「両親と私」の「私」をもっと取り上げるべきであった。「こころ」の主体は実は「私」ではないか。「先生」が自殺した後、残された「奥さん」と「私」との関係をどう考えるか。
 
 岩波書店「こころ」の小宮豊隆の解説にも「先生と私」「両親と私」は「先生の遺書」のために存在すると書いてある。「こころ」のテーマは「先生の遺書」にあるという考え方である。

夏目漱石と九州

 夏目漱石は生粋の江戸っ子だが、九州とも縁が深い。夏目漱石は東京帝国大学英文科を卒業した後、東京高等師範学校・松山中学校で教鞭を取る。もちろん英語の教師である。30歳の時、明治29年4月から第五高等学校(現在の熊本大学)教授として熊本に赴任する。明治33年6月にロンドンに留学するが、それまでの4年間を夏目漱石は熊本で過ごしている。明治29年6月に漱石は中根鏡子と結婚しているから新婚生活のスタートを熊本で切ったことになる。

 漱石は旅行が好きでよく九州内を歩いている。明治29年9月には筑紫太宰府地方、明治32年1月には宇佐・耶馬渓・日田地方を旅している。明治32年9月には阿蘇山に登っている。この時の経験は後に「二百十日」の素材になっている。この二百十日の道を歩いてみたいという思いはあるが、今は仙水峡道路が開通していて、かつて漱石が登ったとされる道ははっきりしない。しかし車道沿いに文学碑は立っているようだ。西日本新聞社発行の「西日本文学碑の旅」に紹介されていた。

 漱石の九州での旅のなかでも特に有名なのは明治30年12月の小天温泉旅行である。漱石はここで友人山川信次郎と年を越している。この時に漱石は熊本市から金峰山の麓の峠の茶屋を通って今の玉名郡天水町小天まで徒歩で歩いている。この時の経験が後に「草枕」の素材になったとされている。

 漱石がこの旅の途中で麓をかすめた金峰山は今日熊本市民によく登られている山だ。私も小学生の時から登っている。また夏目漱石との関係でも有名だ。漱石の「草枕」で有名になった。宮本武蔵にゆかりの深い霊巌洞がある岩戸観音も登山口の一つだ。山と渓谷社アルペンガイド「九州の山」の足利武三氏の文から引用する。
 
 「金峰山は鳥越峠の、峠の茶屋バス停が登山口となる。ここは夏目漱石の『草枕』の舞台となったところである。漱石が旧制第五高等学校(現在の熊本大学)の教授であった明治30年の大晦日、友人と荒尾橋から旧道を鳥越峠へ登り、峠の茶屋に立ち寄る。一節に『おい、と声をかけたが返事がない。軒下から奥をのぞくと障子が立てきってある。』とあるが、今はもう昔の面影もなく、峠の茶屋の案内板もない。」

 「草枕」は夏目漱石の作品群のなかでは「初期作品」と呼ばれている。前期(「三四郎」「それから」「門」)・後期(「彼岸過迄」「行人」「こころ」)の三部作や「道草」「明暗」などの深みのある作品に比べれば軽くみられている傾向がある。文学史ではこの時期の漱石を「余裕派」と呼んだりしている。しかし、同じく初期作品と呼ばれる「吾輩は猫である」「坊ちゃん」なども漱石40歳からの作品である。漱石は50歳で亡くなっているから、あの数々の小説を晩年の10年間で発表したのである。漱石は41歳で朝日新聞社の専属作家になるまでは、英語・英文学の教師であったという事実は重いものがある。「草枕」にも漱石のすべてが投影されている。

『草枕』ハイキングコースを歩く
 半藤一利著『続・漱石先生ぞなもし』(文芸春秋社)に、『草枕』ハイキングコースのことが載っている。詳しくこのハイキングコースのことが解説してある。この本には岳林寺から小天温泉まで全長14キロと記されている。

 正月にこの道を歩くことになった。岳林寺に着いて態勢を整える。「漱石『草枕』ハイキングコース・天水町漱石館まで15.2キロ」と標示がある。しかしこの標示板に「ごみを出さないで下さい」の札がかかっていたのには閉口した。岳林寺までは熊本交通センターから頻繁にバスが出ているので、タクシーよりもバスを利用したがいいようだ。短縮したければ、バスで荒尾橋まで行ける。

 岳林寺を出発して荒尾橋経由で鎌研坂に着く。舗装道路だが、交通量が少ないので歩きやすい。途中に「近道」の標示があり、部分的には山道歩きになった。鎌研坂には立派な石碑がある。「草枕」冒頭の「山道を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安いところへ引っ越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、絵ができる。」の「山道」はこの鎌研坂だとされている。

 鎌研坂を登りきるとすぐに峠の茶屋公園に着く。立派に整備された公園だが、正月ということもあって茶店には人がいなかった。金峰山の登山口を経てハイキングコースを進んでいく。幹線の車道は交通量が多いが、この熊本市が整備したハイキングコースは、うまく交通量の多い道路を避けている。そして細かく指導標がつけられているので迷う恐れがない。のんびりと蜜柑畑や金峰山、二の岳・三の岳を眺めながら歩いた。昔日を偲ばせる石畳の道を踏みしめたり、静寂な竹林の中をゆっくりと歩いた。

 やがて野出の峠の茶屋跡に着く。ここは記念碑があるが意外に殺風景なところだ。ただ展望はいい。有明海がとてもきれいだ。埋め立て地が多いのが気になる。標識があって、ここから天水町の漱石館まで7.2キロとある。

 さて、『草枕』のなかの「峠の茶屋」はこの二ヶ所のうちのどちらかという問題がある。小説の題材なのだから論争しても仕方がない気もするが、『草枕』のなかに、「峠の茶屋から那古井館まで一里ほどの距離」というような記述がある。とすれば金峰山の麓の「峠の茶屋」はあまりにも遠すぎる。野出の方がもし直進すれば一里ぐらいで天水町にたどり着けそうである。
 
 指導標に従って車道を下っていき、やがて「漱石館」にたどり着いたときはうれしかった。15.8キロを三時間半で歩き通すことができた。漱石館のすぐ近くの車道沿いにに小天温泉那古井館がある。

 小天温泉から熊本市へのバスは一時間に一本程度だ。バスを待っている間に那古井館を外から見学した。ここは一泊8000円からだそうだが、料理は有明コース2500円から、那古井コース、草枕コースとあって、漱石コースは5500円ということになっている。他にカニ会席・スッポン会席もある。泊まった人の話によると、温泉そのものは今一歩だが、料理はいいらしい。岳林寺から『草枕』ハイキングコースを歩いて、那古井館に泊まってみるというのは是非一度は実行してみたい。

 漱石館には平成2年発行の「天水町町制施行三〇周年記念誌」が置かれていた。この本の中で「漱石『草枕』ハイキングコース」の詳しい解説がまとめられていた。よくできた冊子だった。天水町役場に電話して、この冊子のコピーを送ってもらった。『「草枕」の里を彩った人々』という本も出ているそうだ。金峰山の麓の峠の茶屋公園や那古井館に置いてあるそうなので購入しようと思う。

【コースタイム・平成7年1月2日】
タクシー降車地点(9:05)→(9:25)岳林寺(9:35)→荒尾橋→鎌研坂(10:05)→峠の茶屋公園・金峰山登山口→(11:30)野出峠の茶屋跡(11:50)→(13:00)漱石館・那古井館

まとめ

 夏目漱石は永遠の作家である。「こころ」は私が高校生だったときからずっと教科書に採られている。就職してからも夏目漱石に関する出会いは多かった。講演会で漱石に接することも多かったし、様々な形で漱石の文章に触れることも度々だった。これからも漱石との出会いはその時々のレベルに応じて続くのだろうと思われる。

 玉名郡天水町は「みかんと草枕の里」がキャッチフレーズだ。ハイキングコースの沿道にもたくさんの蜜柑畑があった。ぜひ一度は訪れていいところだと思う。
                            (1995年3月記)

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