読書会と私
 読書会との出会いは1981年7月だった。私はこの年の3月に大学を卒業して、4月から就職して社会人生活に入っている。それから20年余り、ここで私が学んだものは大きかったし、いまの私の存在を相当な部分この読書会によって規定されている。

 読書会と一口に言うが、正式の名称はないらしい。テーマが明確に定められているわけではないし、特定の社会階層の人々の集団でもない。クリスチャンが多いとか、滝沢克巳先生の崇拝者が多いとか、座長中心の家族的集団であるとか、いくらかの特徴はあるものの、明確な目標を持った集団ではない。普通に読書会とか学習会とかいうもので一定の期間継続しているものは、組織、宗教、政治などの明確な背景があるものがほとんどである。そして存在理由もはっきりしている。財政上の背景もある場合もある。この読書会はその意味では、ユニークなものだと思う。
 私と読書会との出会いは熊本の高校時代の恩師に誘われたことによる。この方が読書会に出られていることは私は学生時代から知っていた。熊本にいらっしゃった頃に、月に一度週末に福岡に帰られていたのは読書会のためだった。北九州に移られてからも、読書会には出席されていた。私が本格的に誘いを受けるのは、就職して福岡市に住むようになってからだ。

 とにかく一回顔を出してみようと軽い気持ちで参加した。そしていつのまにか20年余りが過ぎ去ってしまった。このときに誘っていただけなかったら、今日の私も私の家庭もなかったわけである。このことは本当に感謝している。

 読書会は毎月一回当時の福岡県庁の隣にあった創言社の村上一朗氏の自宅で行われていた。日曜日に14時集合で大体15時から19時ぐらいまでがテキストを使った輪読会で、それから夕食、後は時間無制限で2次会となる。とにかく日曜の午後の6〜10時間ぐらいを費やすのである。時間の流れが日常生活とまるで違う。日常の仕事と家事を中心にした生活では時間は分刻みで動いている。特定の物事にかける時間は長くても1,2時間である。日常生活と異質の時間が延々と続くのである。私の精神が日常生活から離陸して、違った世界に入り込んだような感覚があった。これは今でもそうである。就職したばかりの私には新鮮な驚きがあった。月一回の日曜日が待ち遠しいものになった。
 テキストは1981年は芥川龍之介、82年と83年は夏目漱石だった。読書会はそれ以前から続けられていて、夏目漱石がテキストになることが多かったらしい。私が参加した時期は3回目か4回目の再読だったようだ。特に夏目漱石の作品を系統立てて順次読んでいったことは私にとってまたとない勉強になった。『私の個人主義』『初期作品』『文学論』『虞美人草』『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『思ひ出すことなど』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『硝子戸の中』『道草』『明暗』といったふうに2年がかりで夏目漱石を一読した。

 読書会の内容もさることながら、私個人としても一定の期間夏目漱石作品を大概にわたって読んでいったことは相当な蓄積になっている。その後の私の自信にもつながった。就職して20年余りが過ぎたが、私はいまだに夏目漱石以外の作家とこれほどきちんと取り組んだことはない。

 発表するということから、単に本を読んでいくということと違った読み方を読書会を通して身に付けた。いくつかの作品のノートを作ったが、それをいま眺めていると我ながら驚くばかりである。『こころ』は私が普通に通読すると5時間ほどかかるが、20時間ほどかけてノートを取って読んだ。たまにはこういう読み方をするのも面白いと思う。ただ、発表するということがなければ、なかなかできないものだ。
 毎月一回続けられていた読書会は1984年2月をもって休会になった。この後は年に3回だけ続けられている。5月の会、8月の夏山合宿、12月のクリスマス会である。

 私は1984年4月に福岡市を離れて久留米市に移ったので、タイミングとしてはよかった。あの時期に毎月一回の読書会に参加することは困難だったと思う。年間3回の集まりが15年以上も継続されたのはよかった。出席するたびに得るものが大きかったように思う。

 1986年8月の村上一朗さんのお母さんのレポートは印象的なものだった。村上さんのところのお子さんが中学生から、高校生になり、大学生になり、大人になって父親になるまでの成長の姿を見せていただいたことは貴重な体験だった。
 読書会のテキストは芥川龍之介や夏目漱石だったが、その原点は元九州大学教授の滝沢克巳先生の著作に拠っていた。滝沢先生の講演会が開かれていて、読書会の関係者はこれにも参加していた。しかし私は一度も参加したことはない。1984年6月26日に滝沢先生は逝去されてしまう。私は生前の滝沢先生に一度もお目にかかることのないままになってしまった。『野の花空の鳥』などを眺めながらそのことを残念に思っている。

 夏の合宿には割合よく参加している。この合宿は朝10時ごろ集合して、山に登り、下山後に宿で夕食、その後で読書会を行うというものである。1981年は宝珠山釈迦が岳、82年と83年は久住山、84年は国東半島で海水浴、85年から3年間は若杉山で行われた。その後は九重が多く、宿泊は阿蘇郡産山村の民宿「大平の上」に泊まることがたびたびになった。ここは漬物が豪華で低料金で満足できる宿である。そのほか、鶴見岳に登ったり、近年では黒髪山、天山に登ったこともある。 
 読書会が私の中で強烈な位置を占めるようになるのは、ななちゃんと交際を始めてからである。1987年9月15日に結婚するわけだが、この間にも、結婚式そのものでも、そして結婚後も読書会関係者にはお世話になりっぱなしである。

 ななちゃんの卒業論文は夏目漱石の『それから』だった。これは森田芳光監督によって映画化された。代助が三千代に求婚するときに、白百合の花を部屋にたくさん用意する場面がある。
 「代助は雨をついてまた坂を登った。花屋へ入って、大きな白百合の花をたくさん買って、それを提げて、家へ帰った。・・・・二人は孤立のまま、白百合の香の中に封じ込められた。・・・・『さっき表へ出て、あの花を買ってきました。』・・・・『好いにおいですこと』と三千代は翻るように綻びた大きな花びらを眺めていたが、それから目を放して代助に移したとき、ぼうと頬を薄赤くした。」

 この場面は映画でも印象的だった。

私は1993年夏にツアーで富士山に登った。高山病のために頭がガンガン鳴る中を必死で降りてきた。下山するときにきれいな花が咲いていてとても印象的だった。あとで、この花の名前が「オニユリ」「クルマユリ」であることが分かった。

この二つのことがヒントになって93年10月に生まれた女の子に「ユリ」と命名した。長男は「ヨシキ」と名付けたが、長男の命名については大岡信「折々のうた」がヒントになった。「折々のうた」は朝日新聞に長期連載されていた。

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