福岡山の会との出会い−Sさんの思い出−


 福岡山の会の存在を私が知ったのは、1992年8月に近畿日本ツーリストのツアーの富士登山に参加したことがきっかけでした。2泊3日の旅でした。天気に恵まれ、富士山に登ることができたことは喜びでしたが、このツアーに福岡山の会の会員だったSさんが参加されていました。そのときのことを私はこう書いています。

足利武三氏の友人のS氏が参加されていた。65歳だ。山と渓谷社の「諸国名山案内九州」を見るとこの夫妻の写真がいくつも掲載されている。日本百名山を夫婦で完登し、二百名山も140山に達しているとのこと。50歳の時に日本百名山を30ほど登っていて、60歳までの10年間で残りを登ったそうだ。娘は大学山岳部に所属し、自ら「私はファミリーハイクの草分けです。」とおっしゃっていた。今回の富士登山は家族5人での参加のようだったが、小学校4年生の孫がリタイヤーしたので両親と下山して、最後は小学校6年生の孫と二人で登頂された。私が武田神社で安産のお守りを買っていたときに、「子供が生まれるのですか。おめでたいことです。」と祝福してもらった。バスガイドなどに対する挨拶も丁寧で、この人は感謝の気持ちがある人だ。こんな老人になりたいものだ。

このあと、Sさんは私に福岡山の会の会報「せふり」を送ってくださるようになります。2ヶ月に1回ですが、私はこれを楽しみにするようになります。Sさんが編集された「せふり」の創立50周年記念特集号(1982年発行)もいただきました。

 ところが、1993年の秋から音信が途絶えます。不審に思っていたところ、11月末に年賀欠礼の葉書を受け取ります。Sさんは9月に阿蘇南外輪山の清栄山で登山途中に亡くなられていたのでした。

11月30日に帰宅すると年賀欠礼の葉書がきていた。それでS氏が九月に亡くなられていたことを知った。S氏とお会いしたのは昨年の八月だからそれからわずか一年しか経っていない。私の方からは「阿吽」を郵送したりしていたが、柴田さんは所属する「福岡山の会」の機関誌「せふり」などを送ってくださっていた。現在交友のある人物の死去に接するのはそうそうあることではない。直前まで精力的な活動を続けていた方だったので、強いショックを受けた。

12月27日にSさんのお宅を訪問した。幸いなことに奥さんが在宅だった。30分ほどお邪魔してお話を伺ったが、故人の人徳がしみじみと忍ばれた。阿蘇の清栄山で亡くなったということである。遭難でなく病気でもなかったということはせめてもの幸いだったと言えるかも知れない。アルバムなどを見せてもらった。Sさんはまさに「ファミリーハイクの草分け」であった。私が生まれる前から子供を連れて山を歩いておられた。小さい子供を連れて久住高原から黒川温泉まで歩いておられる写真もあった。まだやまなみハイウェイ開通以前の話である。

ファミリーハイクの本はたくさん出版されているが、Sさんのような実践者はいるのだということを認識しよう。本を出す人だけが実践者ではない。Sさんは近所の人たちを連れて近郊の山歩きもしておられた。「若宮登山会」のアルバムを見せてもらった。最近では山と渓谷社の県別山歩きシリーズの「佐賀県の山歩き」を執筆されていたそうだ。車がないので疲労がたまっていたのではないかということだった。

 5月23日に奥さんから、刊行された「分県登山ガイド・佐賀県の山」をいただいた。この本の中にはSさんや奥さんの写真が出てくる。厳粛な気持ちで目を通させていただいた。

このあと、1994年3月に私は福岡山の会に入会することになります。入会後にも会員の方からSさんのお話を色々とお伺いすることができました。

 ホームページを開設したあと、娘さんから励ましのメールをいただきました。Sさんとの出会いは私のファミリー登山の原点にもなっています。

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