三四郎の森  2005年11月  〜福岡県犀川町・豊津町〜

  海鳥社から2005年8月に出た『物語の中のふるさと』の中には夏目漱石関連の場所が3カ所取り上げられている。『草枕』の天水町小天、『二百十日』の阿蘇町、そして『三四郎』の豊津町・犀川町だ。『三四郎』のモデルは福岡県京都郡犀川町出身の小宮豊隆だという。小宮の母校の豊津高校に「三四郎の森」というのがあるということで、行きたいと思っていた。3月にユリと東京大学構内の「三四郎池」を訪れたこともあり、「三四郎の森」への気持ちが高まってきた。この日思い立って一人で出かけることにした。
                                              

江川ダム(上秋月湖)


  甘木から犀川町へは江川ダムから小石原に出て、添田町を通っていった。江川ダムには江川小学校跡の碑がある。江川小学校は90年間続いたが、ダムの建設に伴って水没した。この湖は上秋月湖と呼ばれている。車を降りて休憩するのにいい場所もある。

 江川ダムを抜けて小石原に出る。英彦山の麓まで行き、添田町から赤村を経て犀川町に至る。戸城山に登ったときにこの付近には来た。「源じいの森」というキャンプ施設も近くにある。この辺りは運転していて楽しい。柿や玉葱を干した家がある。のどかな地域だ。平成筑豊鉄道が東西に走っている。

 まずは平成筑豊鉄道の「東犀川三四郎駅」に行く。1993年に出来た駅だというがネーミングが面白い。この駅の中に小宮豊隆と犀川町とのゆかりについての説明板があった。

 小宮豊隆(こみやとよたか)は1884(明治17)年3月7日、福岡県京都(みやこ)郡犀川村の生まれ。ドイツ文学者。夏目漱石の小説「三四郎」の主人公のモデルと目される。明治35年に豊津中学を卒業し、第一高等学校から東大に進学。夏目漱石の知遇を得て、漱石山房(漱石の自宅の別称)に出入りし、漱石の人柄と文学に親しんだ。ドイツ文学を専攻し、やがて東北大学ドイツ文学講座の初代教授として赴任した。一方、漱石全集の編集や研究にも貢献し、晩年には学士院会員に推され、また芸術院賞を受賞した。昭和41年5月3日没。(スカラベ人名事典より)

 豊津高校を訪れる。豊津高校は現在では福岡県立の中高一貫高校だ。校内に「三四郎の森」はあった。小宮豊隆の記念碑があり、森の中は静寂な心落ち着く空間になっていた。風情のある森だ。小宮豊隆はここの卒業生であり、校歌を作詞している。

  ここの説明板には小宮豊隆は『三四郎』と『こころ』のモデルだと書いてあった。三四郎と『こころ』の「私」は同様の存在とされている。私は小宮豊隆著『夏目漱石』全3巻(岩波書店)を持っている。漱石を読み続けてきたが、この小宮豊隆の本はよく開いたものだ。

 この後、豊津町観光案内所を訪れ、近くの堺利彦記念碑に立ち寄った。

堺利彦(さかいとしひこ)は1871年11月25日(旧暦)、豊津藩仲津郡豊津村(現・福岡県京都郡豊津町)の生まれ。社会主義者・ジャーナリスト・文学者。号は枯川(こせん)。幸徳秋水らと平民社を設立し、1903年(明治36年)、社会主義の立場にたつ「平民新聞」を創刊して、反戦論を積極的に展開した。1922年(大正11年)の日本共産党の結成に参加し、のち共産党からは離れたが、1931年(昭和6年)には郷里の豊津に農民労働学校を設立するなど、民衆の立場を擁護する姿勢は一貫して保持しつづけた。1933年1月23日没。(スカラベ人名事典より)

 八景山公園に行く。ここは小高い丘になっている。車を麓に止めて軽いウォーキングをする。歩きやすい遊歩道が整備されている。ここにはいくつもの文学碑がある。中でも名高いのは葉山嘉樹の碑だ。

 葉山嘉樹(はやまよしき)は1894年、福岡県京都郡の生まれ。小説家。1945年没。この記念碑には次のように記されている。

わが国を代表するプロレタリア作家。
名古屋地方を拠点に労働運動を指導。
自らの体験を表した「海に生くる人々」で、プロレタリア作家として認められ、「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」と次々に珠玉の作品を発表する。
わが国のプロレタリア文学の礎を築く。葉山文学に啓発され、小林多喜二等多くのプロレタリア作家が、後に続くことになる。
信州のダム工事現場に身を置き、常に労働者の立場を貫く。

 この後は、田川経由で飯塚を通り、嘉穂の湯で入浴、マッサージをして帰った。はじめて犀川、豊津を訪れたが感じのいいところだった。北九州、筑豊、大分にはさまれた地域の特性が感じられた。トンネルを抜けると香春町だ。筑豊路のドライブを楽しんだ。若い頃にこの付近に来たことがあり、懐かしい思い出に浸っていた。香春町には万葉歌碑もあるらしいのでまた来てみたい。行橋や豊前も行きたい。海鳥社の『京築を歩く』を見ていると夢が膨らむ。

 嘉穂の湯のマッサージでは初めての男の人に丁寧に揉んでもらった。肩こりがひどいと言われた。8時半に出発して16時に帰宅した。小春日和のいい一日を楽しんだ。

江川小学校碑


三四郎の森の小宮豊隆碑


東犀川三四郎駅


堺利彦碑


八景山の遊歩道


葉山嘉樹碑

葉山 嘉樹 文学碑
除幕 1977年10月18日
福岡県京都郡豊津町八景山

葉山嘉樹文学碑 碑文
「馬鹿にはされるが真実を語るものがもっと多くなるといい」

碑文
「竜ケ鼻」と「原」
− わが郷土を語る −

私の育った村、豊津村は、昔、難行原と呼ばれていたらしい。私の村の附近には無暗に「原」のつく地名が多い。「原」をハラと読まないで、ハルと呼ぶ。「狐原」はキツネバルであり、「新田原」はシンデンバルである。
このハルの原は、開拓されて桑畑となったり、その後へ果樹園が作られたり、またその後へ女学校が建ったりするが、又、いつの間にかその多くは、ハルの原に帰るやうである。
私は幼心の時代を甲塚と呼ぶ字で育った。そこには畑の中に凸字形の古墳が沢山あった。秋になると櫨の木が黄葉して、甲塚を飾る。
甲塚の北の方、今川の流域の平原の傾斜に墓地があった。
この墓地には、私の祖先や子供たちも眠っているが、そこにはいい芝生がある。
幼少時代の私は、その芝生から、今川の流れや、それに沿うて田川地方の炭坑地に走っている鉄道、直ぐ足下の、空と同じ色を映した池、それから五六里の平野を見はるかして、不思議な幻想的な形に横わる竜ケ鼻の山容などを、全半日もほんやりと見とれている事が多かった。
この「竜ケ鼻」と云う山は、いい山である。それは未来永劫、この地球の海面には現はれ得ないだろう巨船の船首である。
だがその外の山はなっていない。思索も幻想も叩っ壊す赤土山の禿げだらけで、その上に縮れっ毛の小松が、臆病に生えている。
だが、いずれにせよ、私はそこで、一番私に親しかったものは、それ等の自然であった。人間の噂は、あまり私に興味を起こさせなかった。
(一九三〇年「新文芸日記―昭和六年版―」に発表)

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