大津山・北原白秋文学散歩 
                 〜熊本県玉名郡南関町〜

               2003年2月16日(日) 大津山  ヨシキ・ユリ
大津山阿蘇神社(13:00)→(13:25)大津山(13:40)→北側周回コース→(14:30)大津山阿蘇神社

 朝は座禅に出かけた。昨夜から雨が降っていた。ヨシキ、ユリと三人で行ったが、ユリは気が乗らないようで車の中で待っていた。今日はヨシキと私だけで座った。私は昨年9月から9回目、ヨシキは8回目の座禅になった。今年に入っては二人とも3回目だ。落ち着く時間を過ごすことができた。ただ、今日は車の中に残してきたユリのことが気になって集中力に欠けた気もする。
                                               


北原白秋生家
  
  この後、筑紫野インターから高速道路に入る。今日は座禅のあと二つのことを考えていた。先週ヨシキと登った南関町の大津山の周回コースを歩くこと、大津山阿蘇神社の北原白秋歌碑を見ることが一つ、もう一つは柳川に行くことである。北原白秋記念館の見学、川下り、ウナギを食べることなどを頭に描いていた。

    午後から天気は回復するとの予報だったが、雨がやまないので、柳川から先に行ってみることにする。

 高速道路を八女で降りて、大川方面へ向かう。大木町の八丁牟田から左折して柳川県道を走り、柳川の市街地にたどり着く。私はかつてこの近くで仕事をしていたことがあり、その時期には頻繁に柳川市内を訪れていたが、それはもう15年も前のことだ。昔日を懐かしく思いながら運転していた。ヨシキ、ユリを柳川に連れてくるのはもちろん初めてのことだ。

 川下りの乗船場などを見ながら市内を走り、柳川城跡などを見て御花の近くの有料駐車場に車を止める。一日500円だ。ここは観光バスが多く止まっている。乗務員休憩所もある。

 川沿いの遊歩道を散策する。雨は小止みになっている。沿道にはウナギ屋さんが多い。ウナギ定食やセイロ蒸しは2000円近くする。「昼ごはんにウナギを食べようか」と言うと、ヨシキは乗り気だが、ユリは嫌だという。「ウナギがかわいそうだから」と言っていた。センベイ屋さんで試食したが、これがとてもおいしくて買って帰った。

 北原白秋生家・記念館に行く。入館料は大人400円、子供150円だ。ユリが井戸などの展示品に触れようとするので冷や冷やだ。記念館の資料は興味深く見た。ビデオシアターで白秋の生涯や作品の紹介があっていて、ヨシキもユリも画面に見入っていた。

 記念館ではいろいろの関連書籍が販売されていた。子供向けの『北原白秋ものがたり』『北原白秋のうた絵本』の他、『白秋と柳川』『白秋の文学碑』という本を購入した。昭和60年刊行の『白秋の文学碑』には62カ所の文学碑が載っているが、九州内は24カ所で、全国に散在しているのがわかる。柳川・三橋は7カ所だが、白秋の生母の出身地の玉名郡南関町に4カ所の碑があるのが目立っている。

 柳川から南関町に向かう。瀬高までは交通量が多いが、山川町に入ると運転しやすくなる。「みかんの里」の山川町を過ぎて南関町に入るとすぐに大津山公園の標識が目に入る。
 物産館でおこわご飯やパンなどを買って、大津山神社の駐車場に車を止める。セレナの中でカップ麺をつくって食事をする。食事中に雨が上がった。準備をして出発する。登り20分、下り60分の歩きなので、荷物はほとんどいらない。 

 最初に大津山神社に参拝する。ユリはおみくじを引いたが「小吉」だった。北原白秋の記念碑の前で記念撮影をする。この歌碑があることは先週ヨシキと来たときには気づかなかった。

  大津山ここの御宮の見わたしを
             族がものと我等すずしむ

 昭和4年5月に白秋が帰郷した際に、南関町の一族の歓待を受けてこの神社の境内で詠んだ歌とのことである。柳川から20キロ離れた南関町の母の実家に少年時代の白秋はよく遊びに来ていたらしい。この歌碑は昭和55年に建立されている。

  雨に洗われた自然歩道は歩いていて気持ちがいい。ヨシキ、ユリは難なく登っていく。やがて大津山頂。二人は広い山頂を走り回っていた。

 下山は北東側の周遊コースに降りる。このコースはよく整備されていた。真新しい橋が架かっている。気持ちよく降りた。10分ほどで広い駐車場に出る。ここに「鳥獣供養之碑」が建っている。

 ここからは山腹を巻くように付けられている舗装された道路を歩いて降りる。意外に広くて立派な道だ。ひょうたん池や「皇太子殿下御成婚記念の森」の石碑などを見ながら歩いていくと、高速道路が見えるようになる。やがて「大津山神社へ」の標識を見つける。登ってきた道と合流して駐車地点に帰り着く。下りの所要時間は50分だった。車道歩きが長かったが、雨上がりということもあって誰一人会わなかった。大津山公園は全て私たち親子のものだった。静かなウォーキングを楽しむことができた。

 すぐ近くの南関インターから高速道路に入り、久留米で降りる。15時半に甘木に帰り着いた。座禅にはじまって、柳川、大津山と盛りだくさんの一日だった。なかなか充実していて楽しかった。

 『北原白秋ものがたり』は面白かった。白秋が幾何学が苦手で落第した話、教師との折り合いが悪くて退学して上京した話、与謝野寛、吉井勇らとの「五足の靴」の話などを面白く読んだ。

 『北原白秋のうた絵本』には子供向けの歌詞が載っている。「雨雨、降れ触れ、母さんが蛇の目でお迎えうれしいな」の歌について、ユリは「カサ持って迎えに来るよりも車で迎えに来てもらった方がうれしいな」と言っていた。ななちゃんは「雨が降ってもお母さんは絶対に迎えにはこんよ」と言っていた。北原白秋の時代と現代との時代背景の差が見受けられる会話だった。

北原白秋生家の記念碑

大津山阿蘇神社の北原白秋歌碑
「大津山ここの御宮の見わたしを
 族がものと我等すずしむ」

大津山頂

山頂を走り回る

山頂で舞い上がる

橋の上で父と娘

皇太子御成婚記念の森

北原白秋年表(北原白秋記念館のホームページより)
(明治18年〜明治37年)
“油屋のトンカジョン(大きな坊ちゃん)”と呼ばれていた少年時代。よく母方の叔父や出入りの商人から内外の物語や珍しい話を聞き、幼き夢は後に文学の憧憬につながりました。中学伝習館に入学してからは、友人と回覧雑誌『蓬文』などを発行。“白秋”と号しました。こうした中で、家の火災や親友の自殺、さらには一教師との争いで卒業直前に退学するなど、傷心のうちに上京しました。

(明治37年〜明治45年)
明治37年に上京した白秋は、早稲田大学英文科予科に入学して学業の傍ら詩作に励みました。翌年には『早稲田学報』の懸賞に応じ、長編詩『全都覚醒の賦』が一等に入選。明治39年には与謝野寛の招きで新詩社に参加。機関紙『明星』で活躍し、先輩上田敏らに将来を期待されました。明治40年、西九州の南蛮遺跡の探訪旅行で名作『邪宗門』を生み出し、さらに2年後、詩集『思ひ出』を発刊。名実ともに詩壇の第一人者となりました。
(大正元年〜大正9年)
白秋は恋愛事件で一時憂悶の時を過ごしましたが、大正2年の春に結婚。神奈川県の三浦三崎で新生活を始めました。『城ケ島の雨』はこの頃の作品です。しかし、妻俊子とは1年余りで離婚。大正5年には江口章子と再婚し、東京都南葛飾に移転。その後も各地を転々と移り住みました。この頃の生活は窮乏のどん底で、白秋の詩境も沈潜。大正8年、小田原に「木兎の家」と呼ぶ茅葺きの家を建てた頃から窮乏生活から脱しましたが、妻章子とも離婚するという不幸にあいました。

(大正10年〜昭和9年)
白秋は大正10年に佐藤菊子と結婚し、翌年長男隆太郎が誕生。大正14年に長女篁子も生まれ、家庭的安息を得て、遠ざかっていた歌作にもかえりました。大正15年小田原から東京に戻り、安定した活発な文筆活動を続けました。昭和3年、大阪の朝日新聞社の依頼で日本初の芸術飛行に参加して、20年ぶりに郷土柳川を訪問し、熱烈な歓迎を受けました。その他にも、官庁や会社の招きで各地を巡遊し、多彩 な文筆活動をしました。

(昭和10年〜昭和17年)
昭和10年に白秋は、新幽玄・新象徴を理念に「多磨短歌会」を結成し、歌誌『多磨』を創刊しました。歌壇を二分する新勢力となりましたが、過労のため発病。視力が衰え、薄明の世界へ入りました。しかし文筆の意欲は衰えず、昭和14年に紀元2600年記念交声曲詩『海道東征』と長唄『元寇』を完成し、その後、福岡日日新聞社から文化賞が授与されました。さらに芸術会会員にも推されましたが、惜しくも昭和17年11月2日、57歳で永眠しました。

北原白秋記念館     柳川市観光協会     なんかんネット
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